壱岐牛

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壱岐牛の写真
壱岐牛の歴史は古く、古事記によれば、壱岐牛は宮廷の牛車を引いていたと記される
程有名であったようです。壱岐の島では
農耕用に飼育され重宝な存在でした。

農業の機械化につれ、肉牛として品種改良が成され、神戸、松阪牛の元牛として出荷されておりました。しかし玄海の魚貝類で有名であった壱岐では、肉牛がそれを越えるとは誰も思い付かないのは当然の事なのです。

だからこそ、一つでも多くの目玉を求める為に、昭和48年(1973年)に壱岐牛移動販売、レストラン、ペンションを三本の矢として壱岐牧場を創立致しました。
壱州牛のロース、ヒレ、もも肉の写真 壱岐牛とオナーの写真 
          壱岐牛日記
私が故郷で牧場をしているのを知った福岡の友人は、
「まさか」と言いながらも彼らしいと評価してくれました。
その動機は、太平洋クラブの初代企画室長が、欧米の地中海クラブを、
ある雑誌で紹介された事に始まります。

その内容は、欧米の方は余暇を楽しむために働くのだと紹介され、
そんな方々が会員と成られ、何も無い所に一月ぐらい過ごせる設備が整った、
楽園を何カ所も造っているとのことでした。

その事に衝撃を受けるくらいの感性を持てたのは、戦後、福岡に駐屯していた進駐軍
との交流のお陰なのです。

彼らは、今のアメリカと比べれば、おとぎ話と思えるぐらいスマートで
紳士的でありフロンティア精神を誇らしげに語ってくれました。

私の父は海軍でしたが、戦後その責任を感じてか仏のように過ごしておりました。
私は逆に、その落差を受け、悪く言えばコンプレックス、良く言えばフロンティア
精神そのもので、貪欲に何かを模索する私には、進駐軍が話して聞かせる総てが
最大のエネルギーになりました。

その結果、大学時代に、今までの水商売に全く無かった空間を作りました。
当時のスタンドバーにジュークボックスを置き、その前に踊れるフロアーを設けた店
を、何の経験も無いのに、いきなり作ったのです。

そしてその店を盛り上げたのは進駐軍でした。彼らは私達に敗戦国と思わせるどころ
か紳士的に振る舞っていました。

その反面、合理的で一杯50円のハイボールを握り、何時間も楽しんでおりました。
しかし彼らは客との会話を楽しみ、まるで従業員の様な役割をするムードメーカー
でした。

そんな店が繁盛しない訳はなく、客からも感謝され慕われました。それから始まり
スナック、サパークラブを作ると、次は何をして楽しませてくれるのと期待される程
でした。

スナックとは第一回目のオリンピックにインバウンド対策で、12時過ぎの深夜の禁酒
条例なのです。アメリカではアフターザバーと言われるスタンドバーには死活問題
と言える大事件でした。

それに対し法学部の私は、食べ物60%飲み物40%は食堂とするの条例を活用し、
軽食はスナックで有ることを進駐軍に確認したのです。それが日本初のスナックの
誕生なのです。

法治国家では、法を守らなければならないが、現場を知らない者が作る法に対し
ては、抗議する権利を認めているのです。

このような難問題を乗り越え、常に先を見て小さな成功を致しましたが
人生を掛ける仕事には出会わなかったのです。

そんな時に地域造りをする地中海クラブの出会いは、自分の身の丈では最高のもの
でした。地中海クラブの地域造りは国造りと同じで、男の最高のロマンなのです。

迷わず、故郷壱岐を余暇の島にするビジョンに向かって始動したのです。
それには壱岐の知名度をあげる為に一つでも目玉が欲しい思いから、対馬馬を8頭飼い
アメリカンポニーとの交配した小型乗馬に取組みました。

余暇を楽しめる余裕が芽生え始めた矢先に、オイルショックによるパニックが起こり
ウイークエンダークラブと言う事業は遠のいたのです。その結果、対馬馬は対馬に返
し、牛飼いを始めたのが壱岐牧場の創立となったのです。

世の中は解らないものです、観光のお陰で広まった壱岐牛は、今では観光の目玉になり観光を支える相乗効果が生まれたのです。

その牛は昔から飼われていた農家が存在したからであり、それが島の資質なのです。
そんな資質を発掘する事が大切なのですが、それはその道に居なければ出来ないの
です。この事を踏まえた上で地方自治体は役割分担を明確にした取組をしない限り、
地方創生は食べる為の種籾にしかならないのです。

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